護法之書
指徳の一日 不動明王の従者、八大童子の指徳の朝は筋トレから始まる。腹筋、背筋、腕立て伏せなど朝の五時ごろから明王に与えられた寝室で行っているのだ。本人曰く、朝から運動すると頭の回転が速くなるのだそうだ。しかし、朝からバタバタと動く音がするので隣の部屋にいた阿耨達はとっくの昔に移動している。 筋トレの後は軽く食事を取ってからジョギングだ。 「おい、制多迦もどうだ?」 「一人で行けよ。筋肉馬鹿の仲間になる気はない」 今日も制多迦に冷たくあしらわれて、指徳は宮を出発した。不動明王の宮は他の宮からは遠く離れているのでジョギング程度では一番近い宮までつかない。 宮から野原に続く道を走っていく。指徳のお気に入りのコースだ。 頭の上を龍が駆け抜けた。阿耨達だ。 「どこに行くんだ、阿耨達」 「………」 答えると長くなるということを学習しているので阿耨達は指徳を無視した。龍は風のように駆けていって、姿をとらえることが出来なくなった。 指徳は野原に続く道を駆けていく。この季節は色とりどりの花が咲いていて目を癒してくれる…が、指徳は花になど興味を持ってはいないので素通りだ。 「あら、指徳」 名前を呼ばれて指徳はゆっくりと止まった。野原の真ん中でたくさんの式に囲まれた矜羯羅が座っている。暑苦しいと皆に評されている指徳に用もなく話しかけるのは彼女ぐらいのものだ。 「矜羯羅か。何してるんだ?餌やりか?」 「みんなとお話していたのよ」 矜羯羅が微笑んだ。主人が相手をしてくれないので白狐が悲しそうに鳴く。矜羯羅は白狐の頭を撫でながら指徳に聞いた。 「貴方は何をしているの?また走ってるの?」 「あぁ。今日も制多迦が誘ったのに断ったんだ」 「そうなの」 矜羯羅は式のほうに向き直ると頭を撫でたり、話しかけたりしている。因みに矜羯羅は動物の言葉がある程度分かるらしい。 指徳は再び走り始めた。彼らのいる世界に時間という概念はないが、大体一時間ぐらいで指徳のジョギングは終わる。 その後の予定は日によって代わるが、今日はとことん鍛えたいらしい。 「制多迦、手合わせしないか?」 「は?」 椅子に座って外を眺めていた制多迦が怪訝そうに指徳を見る。 「体は毎日鍛えておかないとどんどんなまっていくぞ」 「そんなに簡単になまってたまるか」 「だから手合わせ…」 「他に頼めよ」 鬱陶しそうに制多迦が手を払った。 「慧喜」 同じ部屋にいた慧喜に声をかけるが、彼女は指徳を一瞥しただけであっさり無視した。 「慧光はどこだ?」 「慧光は清浄と茶を飲んでる」 慧光と清浄は意外と仲が良い。烏倶婆哦をネタに笑っているのだろう。 「制多迦、手合わせ…」 「いやだ」 「お前とが一番、全力で戦えるんだ!!」 「だからだ!!」 実力では制多迦が一番強く、次が指徳だ。全力で戦いたいときは制多迦を誘うのだが、全力なので避けるのも大変なのだ。そして怪我をする確立が高い。怪我をすると矜羯羅に治してもらうことになる。そうすると何故か烏倶婆哦が出てきて烏倶婆哦の小言に付き合うことになる。疲れる上に文句を言われるため、制多迦は指徳と手合わせはしたくないのだ。 「制多迦、頼む」 「いやだ!!」 バタンと扉が開く音とともに烏倶婆哦が駆け込んできた。烏倶婆哦は指徳や慧喜には目もくれず制多迦の前に立った。胡乱な目を制多迦が向けるとがしっと肩をつかんだ。 「お前のせいだ!!」 「何がだ!!」 こうなると制多迦は指徳の話を聞かない(烏倶婆哦の声が邪魔で聞けない)ので指徳は仕方なく部屋を出て行こうとした。そこへ、清浄が扉を開けて入ってきた。 「何やってるんですか、烏倶婆哦は」 「どうせいつものことだろう」 慧喜が面倒そうに答える。烏倶婆哦は騒いでいるので、清浄が入ってきたことに気づかない。 「慧喜、お茶でも飲みませんか?」 「遠慮する」 「そうですか。では、仕方がありませんね」 清浄が経巻を一本取り出した。慧喜が立ち上がり、清浄から離れる。指徳はそのままの位置で彼らを見守っていた。 「オン」 清浄が手に持った経巻がスルスルと広がり、烏倶婆哦を絡め取った。 「…!!清浄!?何をするんだ!!」 「烏倶婆哦、お茶しましょうか」 清浄の微笑に烏倶婆哦が固まった。 「制多迦に迷惑をかけつづけではいけません。愚痴があるなら私が聞いてあげましょう」 「いや…清浄じゃあ…なあ?ほら、制多迦が聞いてくれるって言ってるから…」 烏倶婆哦が助けを求めて制多迦のほうを見ると、彼は苦笑しながら烏倶婆哦に向かって手を振っていた。助ける気はないようだ。 「おーまーえーはー!!」 「烏倶婆哦、何か言いたいことが?」 清浄がどこまでも黒く笑った。烏倶婆哦のみならず、部屋にいた全員が動きを止める。 「…いえ、ありません」 「ゆっくりお茶でも飲めば、貴方のその落ち着きのない性格も少しは改善されるかもしれませんよ。まぁ、直さなくても良いというなら解放してやらないこともありませんが…」 「そう…」 「矜羯羅もいることですし貴方がいなくても…」 「参加!!参加する!!」 矜羯羅がいるということを聞いて烏倶婆哦の態度が一転した。俄然乗り気なので制多迦は止めてやる気にもなれない。行けばきっと、清浄に馬鹿にされて、慧光に笑い飛ばされて、矜羯羅は助けもせずにただ微笑んでいるのだろうが。 「俺も参加して良いか?」 烏倶婆哦を引きずりながら部屋を出て行こうとした清浄に指徳が声をかける。清浄が本気か嘘か驚いた顔をしている。 「おや、貴方が?」 「茶は大勢で飲むもんだろう?」 「私はかまいませんが、貴方が?日々の日課は鍛えること、時間があれば運動を欠かさない貴方が?」 制多迦がゆっくり立ち上がり、じりじりと清浄から離れていく。指徳のいつにない行動が清浄のスイッチを入れてしまったらしい。慧喜と烏倶婆哦も少しずつ清浄から離れていく。動かないのは本人と指徳だけだ。 「いけないのか?別に良いだろう?」 清浄がかもし出す雰囲気に気づかない、鈍い指徳が言った。 「私はかまいませんと言っているじゃないですか。貴方がじっとしていられるのか心配しているんですよ」 「それぐらい…」 「もし湯飲みを倒したりしたら、貴方に片付けていただきますがよろしいですか?」 「いい…」 「あ、もしかしたら湯飲みを倒す前に熱湯を一人でかぶってしまいそうですね。貴方ほど体が丈夫なら問題ないでしょうが」 清浄がこれ以上できないだろうというほど真っ黒な笑みを浮かべた。さすがの指徳も後退する。 「……やっぱり遠慮する」 「そうですか。それでは仕方がありませんね」 清浄は烏倶婆哦を引きずって笑いながら出て行った。部屋に清浄の笑い声だけが響く。 「外出よう」 指徳が再び手合わせという前に制多迦は青い顔をして窓から出て行ってしまった。指徳が慧喜のほうを見ると、彼女は何も言わずに扉から出て行く。 部屋にいるのは指徳一人だけになった。 「また走ってくるか…」 みんなに何を言われても頭の中に鍛えるという文字しかない指徳であった。 矜羯羅が眠りにつく前の平和な日々です。平和なのか?という疑問は持たないでいただきたい。彼らのいつもの仕事のある日から考えればはるかに平和。 行動が面白いという理由から指徳の一日となっていますが、確実に裏の主役は清浄と制多迦。制多迦は本編の主役?的な位置だから仕方がないにしても何でここまで清浄が濃いのか…。あ、指徳の趣味は筋トレですが、清浄の趣味は茶道です。つき合わされているのはもっぱら慧光と矜羯羅。 |