獣行のアリア
汝、傲るべからず。 汝、鍛錬を怠るベからず。 汝、その身を闘いに置くべし。 汝、その命を闘いの神に捧ぐべし。 「殺せ!!殺せよ!!」 男の喚き声がコロシアム中に響き渡った。彼の声に表れているのは怒りや悲しみではなく諦めの意思。観客は誰もが平然と、別段驚いたりすることなくその様子を眺めている。それがよくある出来事だからだ。 灰色の雲は光をコロシアムに入れることはなく、光も寄り付こうとはしない。観客がどれほど鮮やかな色味で自らを飾ろうと、ここにある物は全て灰色だった。 喚き声を立てている男の反対側にいた青年がゆっくりと男に歩み寄る。重く冷たい剣をその右手に携えて。その剣は男の赤黒い血で汚れている。 「殺せ!!殺せ!!永遠にここにいるぐらいなら死んだ方がいい!!」 「…そうか」 動けず、喚き声だけを立てている男に向かって、青年は錆び付いた剣を振り上げた。青年は躊躇うことなく、剣を男の胸に振り下ろした。 男の喚き声がプツリと止む。手足は硬い石の上に伸びた状態から動かなくなる。 男の胸に突き立っている剣を青年は無表情のまま抜いた。返り血を浴びても、周囲が赤く染まっても男は表情を変えることはない。 それを見ていた観客から歓喜の拍手が沸き起こった。祝い事をしている時のような喜びようだ。男は剣を引きずって舞台から降りていく。 「な……なん…なん…だ…」 面白い見世物を見て喜んでいる観客に紛れて一人、呆然と立ち尽くしている者がいた。ボロボロで薄汚れた外套を纏う、青年というには少しだけ幼さが残る少年。周囲にいる観客達は少年が動くたびに外套や髪から落ちる埃に顔をしかめている。 「若いの、あんたここに来たのは初めてだな?」 次に出てくる物を待っている客の中から老人が少年に声をかけてきた。老人も少年ほどではないが薄汚れた格好をしている。 「…はい」 少年が躊躇いながらそう答えると老人は皺を深くして微笑んだ。 「遠くから来たのかね?異国から来た者は一様にあんたと同じような反応をする」 「旅を…ずっと旅をしていたんです。おじいさんはここへは何度も来たことがあるんですか?」 「あぁ。観客が去った後、ここの掃除をするのがわしの役目だからな。若いの、ここに座りなされ。疲れているのだろう?」 老人に勧められるままに少年は長椅子に座った。埃っぽい外套を脱いで横に置く。外套を脱ぐと清潔で街の人々とも大差ない格好をしていた。 「ここは…一体何をするところなんですか?」 「円形闘技場というのは分かるかね?」 「はい」 「元はスポーツの試合をするただの闘技場だったよ。今となってはご覧の通り、殺し合いをする場になってしまったがね」 「殺し合い…」 歓声が響いた。次の見世物が舞台に上がってきたからだ。さっきの試合で勝ち残った青年のようにも見える。 「観客からすればただの娯楽だよ。血が飛び、人が死ぬ、本物のスリルを味わえる娯楽さ」 「こんなものが娯楽!?」 「あぁ。狂ってると思うのはあんたの勝手だが、ここの観客も、市民も、国の長もここで死んでいくのは人だとは思っていないからね。故に皆、ここで命がけで闘う者達を人間ではなく剣奴と呼ぶ」 「剣奴…」 「皆が剣を使うわけではないし、闘う相手が獣ということもあるが、古くから剣奴と呼んでいるよ。剣奴になる者は犯罪者と自らの力を誇示したがる荒くれ者、それに孤児」 「子供も!?」 若い旅人を老人は不思議そうに見つめている。 「子供だろうが、生き延びるすべがあるのなら大人と同じだよ。あの子のようにね」 歓声と共にもう一人の剣奴が舞台に上がってきた。灰色や黒に埋め尽くされているコロシアムの中で一人だけ赤い。鮮やかすぎるほど真っ赤な服を着ている。茶色の長い髪も彼女の異質さを表現するのに一役買っている。 「女の子…!?」 旅人の驚いた顔を面白そうに見ながら、老人は呟いた。 「少し役不足かもしれないね」 真っ赤な服を纏った少女は躊躇うことなく、前へと進み、青年の目を真っ直ぐ捉えた。どちらの目にも狂気という感情は宿っていない。 「あんな子でも剣奴なんですか…!?」 「彼女はキミとそこまで年が変わらないがね」 「けど…女の子ですよ!!」 上から見ても分かるほど、青年と少女の身長差は大きかった。多分頭一つ分は違うのではないだろうか。 「この闘いに年も性別もありはしないよ」 「けど…」 「口答えせずに見ているといい。あんたにも今に分かる」 青年が剣を抜いて鞘を投げ捨てた。太く長い剣は先ほど見た物と同じで鈍く光っている。少女の腰まで届くかという長さの剣を、青年は軽々と持ち上げて構えた。 それに対して少女は武器を構えることなく悠然と立っている。よく見ると手にも腰にも武器になりそうな物は見当たらない。 「あんなに身長差のある相手に武器なしでどうやって闘うんだ…」 「そう焦りなさるな。あんたはただ見ていればいい。一瞬で終わるのだろうからね」 青年が剣を大きく振り上げて少女に斬りかかって行った。 少女は避けようともせずに片手を上げた。人差し指の中指の間にいつの間にか銀色に煌めく輪をはさんでいる。指輪にしては大きすぎる。 「あの輪は…?」 少年の問いに老人は答えなかった。答えようとはしなかった。 向かってくる青年を見ながら、少女はただその輪の空洞の部分に息を吹き掛けた。細い管楽器のような音がコロシアムの中に響き渡る。 その音に触発されたように観客が歓声を上げた。 輪から飛び出した空気は色を、形を持って少女の前に現れた。それが何か分かるより先に、それは素早く駆け抜け、青年に噛みついた。青年はもがいて、剣を振り回すが、それを傷つけることも青年自身を放させることも出来ない。やがて右手は力を失い、剣を地面に落とした。垂れ下がった右手から、ポタポタと血がしたたり落ちている。 青年の胴に牙を突き立てているのは、紛れもなく豹だった。褐色の毛色のところどころに黒の斑点がある豹だった。真っ赤な血が豹の顎からもしたたり落ちている。 「豹なんてどこから…」 「見ていたじゃないか。あの子の持つ輪から飛び出してきたんだよ。あれがあの子の闘うすべさ」 青年の身体を引きずりながら、豹が少女に歩みよった。少女は豹の頭を優しく撫で、ほのかに微笑んだ。 「いい子ね」 豹は嬉しそうに喉を鳴らすと、青年の身体を放して、少女が持つ輪に飛び込んだ。その後には豹の影も形も残されていない。 少女は鮮血の池を作り出している青年を一瞥してから、舞台を降りて行く。 観客はひときわ大きく歓喜の声を上げた。 「こんなものがあるなんて…知らなかった」 少年が唇を噛み締め、拳をかたく握って呟いた。自らを責めるように。 「楽しくはないかな?異国の方には刺激が強すぎるのかもしれないね」 「いつからこんなものが…?」 「わしが生まれるよりもずっと前からさ。昔は上流階級の裏の遊びだったようだが、今ではこの通り、市民にも浸透しているよ」 この老人もここで剣奴が死ぬのが当たり前だと思っていることは少年にも手に取るように分かった。異国の者が何を言っても「慣れていないから」という理由で片付けるだろう。 「おじいさんは剣奴の人々と話したことがありますか?」 「あるよ。数えるほどだが、孤児であった者とはね。あの子とも話をするよ。一言二言だが」 少年は一度、目を閉じて深く息を吸い込んだ。目を開けた時には強い意思が宿っていた。 「あの女の子を紹介してくれませんか?話がしたいんです」 「それはいいが、あの子はあまり人に心を開かないよ?」 「それでもいいんです」 老人が了解の意を示すと少年は立ち上がり、外套を羽織ってコロシアムの出口へと向かって行った。 この「獣行のアリア」は長編で書く予定の物を短編にした物です。ノリとしては序章です。なので、山場がないとか言わないでください。これは本編じゃないんです!長編の方の主人公は少女ですから。 長編で書く予定のない少年と少女の出会いを短編という形で先に載せたわけでして…。長編をいつ書くのかと聞かれたら困りますけど…。そのうち書くのではないかと…。そしたら完全にバトル物になりますけどね。 |