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翠靄(すいあい)の嘆き


 木漏れ日が辺りを優しく照らす。森は薄い緑色の絹衣をまとったようで、何もかもが若草の色に染まっていた。
 少女がまとう柄物の白い着物も光の加減で緑色に見えた。
 桃色の桜をあしらった白い着物。それに淡い青色の帯を締めている。肌も白く、頬だけが僅かに赤みをさしていた。
 薄い色を合わせることで強調された黒い瞳と背中で結われた長い漆黒の髪。その瞳は何を見ても揺れることはなかった。
「迷った…」
 十代の半ばであろうという少女が唇を少しだけ動かして、そう呟いた。






 散歩がしたくなっただけ。
 彼女に言わせればただそれだけのことだろうが、森の中は散歩に適しているとはお世辞にも言えないほど荒れ果てている。人があまり踏み入れることのない森の中に少女は入って行った。それは多分、彼女が静な場所に行きたかったということなのだろう。
 彼女は一人になりたかったのだ。






 闇雲に森の中を歩き続けていると、目の前にひときわ大きな樹が現れた。少女はその大樹の根元で一休みすることにして、座りこんで幹に背中を預ける。
 家族には散歩に行くということも、ましてやこの森にいるということも伝えていない。少女がいないことに気づき、探し回ったとしてもこの森の中までは探さないだろう。だから迷ったら自力で森から抜け出さなくてはいけない。
 目を閉じて深く呼吸をしながら、森の音に耳を傾ける。彼女の耳に聴こえるのは木々の囁きだけであるはずなのに、何処からか声が聞こえた。
 空耳だろう。そう判断して少女は目を閉じたまま開こうとしない。
「寝てるのか?」
 今度はすぐ耳元で声がして、少女はパッと立ち上がった。
 横に不思議な男が立っていた。森に溶け込む緑色の着物。髪をつむじで結っているにも関わらず、髪は地面に引きずっている。しかもその黒髪は地面と同化していて髪の終わりが見えない。
 男が頭を掻くと、葉や小枝がバラバラと落ちてきた。頭に葉など付いていないのに。
「…変なの」
 少女の言葉に男が反応した。
「変とは失礼な。俺がいるから人間は生きてるのに」
「へぇ」
 男が呆れ混じりのため息をついた。
「驚けよ。普通の人間は俺を見た時に騒ぐとかするぞ?」
「だから?」
「だからって……面倒だな。いいか?俺は人間じゃない。森の…正確にはこの大樹の精だ。分かったか?」
「そう…」
「ガキ、分かってないだろう?」
 眉をしかめて、少女がぼそぼそと呟いた。
「…じゃ…」
「は?」
「ガキじゃなくて氷乃(ひの)深水氷乃(ふかみひの)
「はいはい。そうかい。俺から言えば人間なんてみんなガキなんだよ。ところでガキ、ちょっとお前にやってもらいたいことがあるんだが」
「やだ」
「言っておくが、拒否すれば後悔することになるぞ」
 そう言った途端に、薄い碧色の(もや)が彼らを包みこんだ。大樹からそう離れていないところにあった木が全く見えなくなった。
「俺の頼みを承諾しないかぎり、この靄は晴れない。帰ることが出来なくなるが?」
「それは…困る」
「それなら協力しろ、ガキ」
「分かった…」
 白い着物の少女、氷乃が不承不承(ふしょうぶしょう)頷いた。森の精が満足げに笑う。
「お前に頼みっていうのはだな、この森を荒らす人間を追い払ってもらいたいんだ」
「人間を?」
「人間に人間を追い払えって言うのかとでも言いたいのか?残念ながらこっちは死活問題でね。そんなこと言ってる暇はないんだ」
 森の精が地面に腰を下ろした。氷乃も森の精の向かいに座る。
「その人たちは追い払わなきゃいけないほど何したの?」
「珍獣狩りだ」
「ちんじゅう…?」
「この森は俺の影響が大きいから他のところにはいない動物が沢山いるんだ。それをやつらは銃で無差別に殺す。何に使うのかと思ったら、珍獣の剥製(はくせい)と称して高額で売ってたよ。まったく…命をなんだと思ってるんだ…」
「………」
 氷乃は無言で森の精を見ていた。口調や物腰に騙されそうだが、彼は氷乃よりも三つほど年上にしか見えない。
「…ねぇ…」
「なんだ?」
「名前は?なんて言うの?」
「名前はない。森の精に名前など必要だったことがないからな」
「じゃあなんて呼べばいい?」
「好きに呼べ」
「じゃあ森、こんな"ガキ"に大人を追い払うことが出来ると思ってるの?」
 氷乃はそう言えば、協力せずに解放してもらえると思っていたが森の方が一枚上手だった。
「大人になりきってないガキの方が好都合だ」
「銃を持った大人に対抗するのに、なんで好都合なの?勝てると思ってるの?」
 森は口元に笑みを浮かべて立ち上がった。氷乃は座ったまま森が何をするのか見ている。
 森は何もない場所に手を向けた。森に従うように靄をまとった風が氷乃の視界を一瞬塞ぐ。その一瞬の間に、森が示していた場所に森の身長ほどもある木が出現していた。
「この力を貸してやろう。芽生えの力だ」
「なに…?どうなってるの…?」
「この力はどこにでも植物を芽生えさせることが出来る。水のない乾いた土地だろうと、人の皮膚だろうと。こんな風に」
 森は緑色の着物の袖をまくって、自分の腕を指した。皮膚から蔦(つた)が伸びて森の手に絡まった。
「この力があればなんとかなるだろう」
「なんで大人じゃ…」
「大人だとこういう力の定着が弱い。だから、ある程度物事を理解できて、力が定着しやすいお前ぐらいのガキが丁度いい。人間を追い払ったら俺が力は取り出してやるから安心しろ」
「安心しろって…」
「あ…」
 森が何かに気づいて声を出した。そしてずっと遠くの方を睨んでいる。
「何?」
「やつらが来た。一…ニ…三人だ。飛ばすぞ、ガキ」
「え!?」
「やつらの近くまで飛ばしてやる。上手くやれよ」
「ちょっと…!」
 氷乃の身体が浮き上がる。森が楽しそうに手を振っている。文句でも言ってやろうとした時には風景が変わっていた。
 森も大樹もない。薄暗く見通しの利かない場所だった。
「どこ…?」
 氷乃が静かに呟くと、近くから小枝の折れる音と複数の声がした。これが森の言っていた珍獣狩りのやつらだろう。
「どうしろって言うの…」
『力を使え。お前が望んだ場所に草木が生えてくる』
 森の声が氷乃の耳元でする。氷乃が辺りを見回すが森の姿はない。
『俺はこの場所から動けない。動けば力を大量に消耗する。だからお前みたいなガキに頼んだんだ』
 高慢な口調のまま森が言った。
『ここで逃げ出そうとしても迷うだけだ。帰りたいならさっさとそいつら追い払え』
 そこまで言うと森の声は完全に消えた。
 仕方なく氷乃は珍獣狩りをする者達の前に飛び出した。珍獣だと思ったのか彼らは一瞬銃を構えたが、人間だと分かって銃を下ろす。
「突然飛び出したりしたら危ないだろう?早く家に帰りなさい」
「おじさんたちがここで動物を殺してるの?」
「早く帰りなさい」
「無闇に動物を殺すと罰が当たるよ」
「何を言ってるんだ。私達のこれは仕事なんだよ。有効に活用してるんだから無闇に殺してるわけじゃない」
「ふーん。そう…」
 氷乃はまず銃を使えないようにしようと思って、頭の中で念じ始めた。すると、銃ではなく氷乃の脇の地面から蔓草(つるくさ)がどんどんと伸びてきた。
「どうして…」
「なんだ!?どうなってる!?この森はやはり何か他と違うのか!?」
 蔓はさらに伸び、氷乃の足首に巻き付いた。
「こっちじゃない」
「何を言ってるんだ…?」
 氷乃はなんとか蔓草を足首から外すと前方、珍獣狩りの面々の方へ両手を掲げた。
「生えろ」
「さっきから何を……うわっ!!」
 銃に生えるように念じたはずなのに、今度は最初に氷乃に話しかけてきた人の腕から葉が出てきた。
「どうなってるんだ!!」
「こいつだ!!こいつがやってるんだ!!」
 猟師が氷乃を指差した。氷乃は顔色も変えずにその指を、猟師を見ていた。
「このガキも珍獣なんじゃないのか?」
「そうだ!!そうに違いない!!」
「殺せ!!新種は高く売れるぞ!!」
「殺せ!!」
 猟師達が銃を構えた。銃口は氷乃の方を向いている。
 氷乃はもう一度頭の中で草が生えるように念じたが、何も起こらない。今にも火を吹きそうな銃を向けられ、氷乃は命からがら逃げ出した。
「逃げたぞ!!」
「追え!!」
「撃ち殺せ!!」
 銃を構えて猟師が氷乃を追う。
 氷乃は着物の裾を(ひるがえ)しながら必死で走った。時々、氷乃を(ひる)ませようとした猟師が発砲してくるが、足を止めることなく逃げ続ける。
 もしかしたら足止めになるんじゃないかと芽生えの力を再度使うが、まったく関係のないところに木が生えるだけでまったく役に立たなかった。子供の方が力が定着しやすいと森は言っていたが、このぐらいの年齢になると大人と同じで定着しないのではないかと、氷乃は力がまともに働かないのを見て思った。
 なんとか猟師達をまこうと森の中をジグザグに駆け抜けるが、彼らはなおも氷乃の後を追ってくる。木の根っこにつまずいたりすれば逃げ切れるだろうが、森が言っていたように彼らは何度もこの森に来ているので、つまずいたりしそうな様子はない。
 全速力で何分も走り続けていたので氷乃の体力は底をつく寸前だった。しかも動きやすい格好をした猟師とは違い、くるぶしまで隠れる着物だ。彼らが転んだりする前に、氷乃が転んでしまう方が確立としては高い。
 氷乃が突然、足を止めた。猟師達はこれ幸いと銃を氷乃に向ける。
 息を切らして、猟師を見つめる顔に浮かんでいるのは諦めの色。氷乃は逃げ続けても最後には捕まって殺されてしまうのだからと足を止めたのだ。彼女の頭にあったのは『逃げることで苦しくなるのなら、いっそ楽に死んでしまいたい』という思いだけだった。
 猟師達が氷乃に銃口を向けて、引き金に手をかけた。
 これでもう楽になると氷乃が思ったとき、頭の中に直接声が響いてきた。
『助けてほしいか?』
 森の問いに対して彼女は簡潔に答えた。
「どっちでもいい」
 猟師達は彼女の様子など気にもせず、引き金を引いた。
 すると、今まではなかった木が突然生えてきて、銃弾から氷乃を守った。
「なんだこの木は!?」
「関係ねぇ!それを仕留めろ!」
 猟師の一人が再び銃口を氷乃に向けた。
「やめておけ」
 冷静でいて有無を言わさぬ声が森の中に響いた。
 猟師はかまわずに引き金を引こうとすると、銃から蔦や葉が生えてきた。引き金を引こうにも蔦が絡まっていて引くことが出来ない。なおも草が生えてくる銃が恐ろしくなり、彼は投げ捨てた。
「だからやめておけといっただろう」
 小枝の折れるパキッという音とともに、緑の着物を着た男が現れた。
「森……」
 氷乃が小さく呟く。森は一瞬氷乃のほうを見たが、すぐに目線を男達に合わせる。
「この森から出て行け」
「誰だか知らないが、お前に命令される筋合いはない」
 森が面倒そうに頭を掻いた。バラバラと草が落ちる。頭を掻くのをやめると、黒色の瞳が煌めいた。
「我は森の精霊なり。この森を荒らす者よ、立ち去れ。永遠に」
「うわっ!!」
 突風が吹き荒れて、男達を森の外に吹き飛ばした。男達がいなくなるとすぐに突風は収まった。
 さっき猟師の一人が投げ捨てた銃だけが残っている。森が指を弾くと、銃はひとりでに地中に潜っていった。
「これでもう大丈夫だろう。世話をかけたな、氷乃」
 森が暗い方向へと向かって歩き出した。
「どうしたの?」
「寝に行くんだ」
 そう言った時にはもう森の姿は消えていた。氷乃ももう芽生えの力を使うことは出来なくなっていた。






「ガキ、何故いる」
 森が一年ぶりに目を覚ましたときに彼が宿っている大樹の根元には僅かに成長した氷乃がいた。
「ずいぶん起きるのが遅い」
 氷乃が笑ったように見えたが、きっと光の加減でそう見えただけだろう。
「質問に答えろ」
「別に。理由はない」
 一年前と同じように氷乃の簡潔な答えに森はブツブツと文句を並べるのだった。















 お届けいたしました『翠靄の嘆き』は漣様のリクエストです。ありがとうございます。
 和風ファンタジーということで書いたのですが、いかがでしょうか?満足いただけましたか?
 これを書いていて気がつきました。氷乃みたいな感情のほぼないキャラって主人公に向かない…。書きにくい…。何故って自分から動こうとしないから。ちなみにこの名前『深水氷乃』は無感情で冷たい印象を受けるところから付けました。
 珍獣狩りの面々、猟師、男達などなど色々名前が変わっていますが、本当はハンターという言葉が使いたいところだったんですよね。でも和風なら外来語は使っちゃいけないルールが俺の中に存在するので仕方なく。





2008年4月24日


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