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犀雅国陸軍軍事記録
第30話 誘拐と血刀5


 暗闇の中で朝比奈大佐の腹部がなった。窓もない部屋では正確な時間は分からないが、もう夕食時だろう。いつもなら大佐も家に帰ってのんびり夕食を食べているか、残業しながらインスタント食品をすすっている時間帯だ。誰にも邪魔をされなければインスタント食品でもそれなりに楽しく過ごせる。
「腹減ったなー……」
 外に聞こえる程度の大きな声でそう言ってみたが、人が動く気配はない。人質に食事を出すなど考えていないか、食事は出さなくていいと指示されたのか。もっともここまで厳重に腕を縛り上げているのでは見張りなど要らないのかもしれない。
「餓死しますよー。というか、腕が鬱血しそうですよー。ほら、もう指がこんなに冷たい」
 なんとか食事を、それが駄目なら腕を鎖で結ばれている状態だけでも何とかしてもらおうと扉の外に向かって主張するが、まったく反応なし。
 大佐はまったく知らなかったが、扉の外にはちゃんと見張りがいた。しかし、大佐の声が見張りに届くはずがない。大佐がいる部屋は防音で、扉に体当たりでもしない限り、外の人間は気がつかない。
「誰かー。助けに来てくださーい。じゃないと殺される前に餓死しそうな予感がしますよー」
 すぐ外にいる見張りにすら聞こえないのに斉刻司令部に声が届くはずがなかった。






「朝比奈大佐の声が」
 軍部の食堂で書類片手に夕食を食べていた中尉の隣で、同じく夕食を食べていた軍医が呟いた。
「はい?」
 中尉が書類から顔を上げる。大佐がこの司令部にいないことはトリプルチェックで証明済みだった。さすがの白衣の悪魔、地獄耳の軍医でも何キロも離れた場所にいる大佐の声は聞こえない、はずだ。
「大佐の声がした気するのですが…私の聞き間違いでしょうね」
「ええ、多分。大佐はここにいませんから」
 もし本当に大佐の声が聞こえたならば、軍医は人間ではない。最初から人間かどうかも疑わしいが。しかし本当に聞こえているのならば方角を聞き出し、上田伍長を使って大佐を迎えに行かせるのが一番早い上に面倒もないと、中尉は考えていた。
「どっちのほうから聞こえました?」
「はっきりは聞こえませんでしたので」
 舌打ちしたくなったが、いや実際に大佐や上田相手だったら容赦なく舌打ちしているところだが、相手が白衣の悪魔なので自重する。自重しないと誰であっても命がない。
「静かですね」
「どこがですか?」
 食堂は大佐の不在を知らない軍人たちでとてもにぎわっていた。食器のぶつかる音や談笑する声でやっと軍医の声がきこえるぐらいだった。静かという言葉とは無縁のように思える。
「中尉が」
「…なめてるんですか?それとも馬鹿にしてるんですか?」
「いいえ、そんなことは」
 笑顔の時間の方が長いので感情が読めない。
「朝比奈大佐がいらっしゃらないので、柳中尉の怒鳴り声があまり聞こえないと」
「…大佐を馬鹿にしてるんですね。それなら別にいいんです」
 食堂にある普通のコーヒーを一口飲んだ。はっきり言ってまずい。これはあとでオリジナルブレンドのコーヒーを入れよう。
「大佐はいつ帰ってくるんでしょうねぇ」
「…早く帰ってくるといいですね」
「ええ。せっかく実験途中の物を持ってきましたのに」
「………」
 大佐のためには早く帰ってこないほうがいいのかもしれない。






「もーしもーしかめよー、かめさんよー……はぁぁぁ」
 気を紛らわせるのと少しでも外の注意を引こうと大佐は歌っていたが、いい加減レパートリーもつきかけていた。そもそも普段忙しさのあまり音楽なんて聴かないから、小学校で習ったような類のものしか覚えていなかった。
 無事に帰れたら、今ヒットしている曲をちゃんと聴こう。そう決心する大佐だった。
「そういえば…ネロ……」
 愛剣ビクトリアの心配はずっとしていたが、ネロのほうはすっかり忘れていた。捕まる前は持っていたのだが、今ないところを見ると多分誘拐犯が持ち去ったのだろうが、無事だろうか。あれは大総統に貰ったものだから返ってこないとまずい気がする。返ってきても折られていたり、砕かれていたり、溶かして鍋なんかに変えられているとすごくまずい気がする。鍋だともう原形をとどめていない。
「あとで弁償とか…弁償……」
 剣よりも弁償で請求される金額を想像して大佐は頭を下げた。あれは給料三か月分じゃ足りない気がする…。
「給料じゃ足りないから、一年ただ働きとか…またビクトリア没収とか…陸軍を強制辞職!?その上軍医の実験台にさせられる!?」
 大佐の想像は段々と悪い方向へ流れていった。
「……………帰ってこいネロ!!」










2009年4月12日


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